先輩経営者に訊く

人の縁と昔ながらの蔵が自分の財産

山名酒造株式会社
  代表取締役 山名純吾氏
1716年創業、丹波では一番古い造り酒屋として知られる山名酒造。山名純吾さんはその11代目にあたります。丹波の自然と、人の手で育まれる、地元産にこだわったお酒造りを昔ながらの酒蔵にて継承。『奥丹波』をはじめとした味わい深い地酒は、多くの人に愛されています。
  • Q.
    酒蔵のご子息として生まれた、山名さんの子供時代の話を聞かせてください。
    A.
    .生まれたのは1960年です。その頃、昭和30年代の日本は高度経済成長の時期で、希望に満ち溢れていた時代でした。モノはあまりあふれていなくて、丹波の野山で駆けずりまわって遊びながらもテレビも普及してきたような、新しい時代も体験しながら育った世代だと思います。
     深く考えない、出たとこ勝負のところがあって、酒屋を継ごうと幼い頃から強く思っていたというわけではありません。当時は勉強もでき、ピアノも習っていたのですが、ピアノに通う道中、同級生の男の子から囃し立てられるわけで、それが嫌でしょうがなかったんです。高学年になると「お高くとまった酒屋のぼん」という感じで地元の仲間になじめなくなっているのを認識してきました。
     ちょうどその頃大阪の豊中で暮らしていた祖母から「出てこうへんか」と話があり、これ幸いと田舎を飛び出し、豊中の中学校に進学しました。
  • Q.
    豊中での暮らしはどうでしたか?
    A.
    小学校時代は酒屋のぼんとしていい子を演じていたところがあり、中学校では逆の路線で行こうと、破天荒なギャグのような子供を演じることにしました。都会と田舎の子では身体能力の差があって、田舎では体育が苦手だったのに、都会ではトップだったんです。ここでは「みんなに愛される山名君像」を演じていました。
     それが高校に進学してから、丹波の山猿のような自分を演じることに疲れがでて、学業への興味も失ってしまいました。2-3か月、今でいう不登校のような状態になって、毎朝家を出て学校行くふりをしながら、自転車に乗って六甲山に登ったり、高速道路の壁でキャッチボールをしながら過ごしました。でも2-3か月休んで初めて学校に行ったときは、クラスメイトがみんな拍手をしてくれたのが今でも印象に残っています。
  • Q.
    ご自分の進路はどのように選ばれましたか?
    A.
    関西大学の中国文学科に進学したのは、祖父に勧められ、深く考えないで選んだんです。大学でもまた勉強もせずバイト漬けのような日々で、大学は7年も行きました。
    就職しないといけなくなって、街をうろついているとビール瓶が山高く積んである倉庫を見かけました。その光景を見て家が造り酒屋ということもあり、就職したいんですと言って、面接を受けて話してたら「お前おもろいな、明後日から来い」と就職活動一日で酒類問屋さんに就職しました。
    講座
  • Q.
    酒類問屋さんでの修業ではどのような学びがありましたか?
    A.
    営業で西淀川区と尼崎、宝塚の一部を担当しました。はじめは売れないビールを持って一ケースだけ置かせてください、というような売り方をしていたのですが、ヒット商品が出てからは何ぼでも売れて、何百ケースという注文が入るのにメーカーからおりてこなくて。それで小売店の人に怒られまくることに嫌気がさして、セールスしなくても頭下げなくても人気商品は売れるので、セールスをせずに浜辺で寝てたりしたんですね。その間にも粘り腰のセールスさんは怒られながらも行って、怒られて帰ってを繰り返していました。
     それにかまけていたら、冬の日本酒シーズンになりました。すると夏にちゃんとセールスしていなかった僕は、「お前からは一切日本酒は買わん」と言われてしまって。小売店の人は逃げた人より、真摯に対応した人に冬の注文を回したわけです。
     そこで4年修業して、楽しかったことも勉強になったこともありました。ただそこではお酒を売るのに、質でなくて値引きとかノベルティで売っていました。金額だけで判断されるのはつらいことですよね。
  • Q.
    都会で修業を積まれた後、丹波に戻ってこられたんですね。
    A.
    結婚して、子どもができてから、30歳の時でした。問屋ではモノを売るということについて勉強してきたので、自分の家の蔵をそういう視点で見てしまうんですね。すると、つぶれかかった旧態然の姿に見えたんです。昔からの作り方でコストも考えずに作って、配達するだけして集金もしないような父のやり方は、セールスをしてきた僕にはもどかしくて。
     それでも、地元の酒米を使って手作りで酒を造りつづけていたという、前時代の遺物のような状況は、ある意味で理想の姿でした。高度経済成長の中で得たものもあれば失ったものもあり、川も変わってしまって子供が外で遊ばなくなってしまった。その中でふと自分の蔵を見ると昔から変わっていない、これこそ僕の財産なんだと感じました。
  • Q.
    その中で「奥丹波」が生まれた?
    A.
    創業は1716年で、江戸時代までは「千歳」という名前で酒を販売していましたが、明治からは新しい時代になったのだからと、「千」から「萬」へ変えて「萬歳(ばんざい)」という名前で売ってきました。しかしその名前だと終戦以降は難しいものがあり、ネーミングを変える機会もうかがっていました。そこで「奥丹波」という名前はどうかというアドバイスをいただきました。近松門左衛門の戯曲にも「奥丹波 柏原」と書かれていたり、京の都から見てこちらが「奥丹波」と呼ばれていることからも、ディープないい名前だと思い、そのままいただきました。
     「奥丹波」は最高のコメで仕込みたかったので、地元の人に作ってもらった最高峰の酒米「山田錦」を使いました。また寒い地域の杜氏さんに仕込んでもらいたくて、岩手県の南部地方花巻までスカウトに行きました。その杜氏さんは本当に神がかりな人で、お酒も滑らかで綺麗な酒ができました。あの味は忘れることがないですね。
  • Q.
    「奥丹波」は大変な人気ですね。
    A.
    初めに奥丹波を造った時には、売り先もなかったので自分でチラシを作って、自分の集落や周辺の集落に自分でポスティングして。最初の年は500本で、地元の人が買いに来てくれて全部売れました。美味しかった、これはすごいと分かってくださって、「奥丹波」はうまいという話が広まってくれて、今は「奥丹波」の木札のかかったものは6000本くらい作っているんです。今も手作りでやっているので、供給に需要が追い付かないような状態ではあります。機械を導入してたくさん仕込めるようになると、また違う悩みが出てくるのでしょうね。
  • Q.
    最後に、これからの山名さんの展望を教えてください。
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    A.
    これから日本酒がどうなっていくとか、そういうことはあまり深くは考えていません。その時代時代に流れている風がありますが、それと逆行するような感じを狙っている節はあります。僕は、身の丈に合った今の状況で、酒が造れてそれが売れて、大きい儲けはなくても、次の年の酒米が買えるだけの資金ができたらそれでまた作る、というのを続けていきたいと思っています。