先輩経営者に訊く

若い時の自分への投資が、のちに肥やしとなる

茶寮ひさご 総料理長
  眞鍋 馨氏
丹波の郷土料理屋の長男として生を受け、北大路魯山人ゆかりの中之島竹葉亭にて料理修業。その後、大阪心斎橋の俎庵 塩梅の料理長を経て、四国丸亀のよし丁にて料理長を務める。現在、茶寮 ひさごのオーナーシェフとして丹波の地で包丁を握る眞鍋さんに、これまでのあゆみとこれからの展望をお伺いしました。
  • Q.
    「茶寮 ひさご」は創業何年になりますか?
    A.
    55年になります。創業したのは私の父です。父の時に食堂からはじめてその後お寿司を提供するようになり、料亭に発展していって今のお店があります。
  • Q.
    眞鍋さんは、その料亭の息子さんとして子供時代をすごされたんですね。
    A.
    はい。私が小さい頃は山南町に約10軒の料理屋さんがありました。西脇市、黒田庄など播州では織物が盛んで、非常に好景気だったんで、仕事の終わりに飲食に来られるお客様が多かったのです。逆に、おかしな話ではあるのですが親は店が忙しすぎて私たち子どものご飯を作る時間もない時がありました。それでよく、自分たちは近所の食堂にご飯を食べに行ったものです。でもいつも両親が深夜まで働いている姿を見ていて、「私も長男だし、将来はお店を継ぐんだろうな」と思い、小学生のころから店の手伝いはしていました。
  • Q.
    調理の勉強や修業はどちらでされたのですか?
    A.
    高校を卒業してから大阪の調理師学校に進みました。調理師学校で初めてフランス料理に出会い、当時かなりフランス料理に傾倒しました。でも、親の店を継ぐという暗黙の了解や、先生の勧めもあり、卒業後は大阪中之島竹葉亭というお店の和食部に就職しました。
  • Q.
    実際に和食に携わられて、どんな学びがありましたか?
    A.
    竹葉亭はもともと東京のお店で、江戸時代創業の老舗でした。財界人や政治家のご利用が多かった大きな料亭です。私にとって幸運だったのが、その店のおかみさんがすごく見識のある方だったということです。それまで芸術や器など、詳しいことは知らなかったのですが、お店に置いてある調度品などはすべて良いもので、外部からも講師を呼んでお茶やお花や料理の講習を受けさせてもらうなど、色々と勉強させていただく機会に恵まれました。また経費をいただき、京都や大阪の有名店の食べ歩きにも行きました。お店ではお客様に「北大路魯山人」など一流の器を使って料理をお出ししていました。
  • Q.
    北大路魯山人に、眞鍋さんはどのような影響を受けられたのですか?
    A.
    魯山人は天才で、稀代の食通です。この人は最初は、書で世に出まして、若くから大きな賞を数々受賞するなど非常に書に優れていました。40代くらいで「星岡茶寮」という伝説に残る料亭を立ち上げ、料理長にもなりました。お店をするとなり器が必要だということで、自身でも陶芸をするようになり、陶芸でも人間国宝の指定を受け(のちに返上)るほどの才能の持ち主です。竹葉亭はその魯山人ゆかりの店で、魯山人の器を自由に使うことができました。盛り付けに使ううち、どんどん魯山人ワールドに引き込まれていくようになりました。若い時に良いものに触れる機会を得たので、自分でも自腹を切って良いものを見たり食べたりして勉強するようになりました。
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  • Q.
    若いうちから、自腹を切って勉強をされたのですね。
    A.
    よその料理を食べるときは、自分のところにないものやサービスの仕方を学ぶために、自分が仕事をしているところより上のところに行かないと勉強ができないんです。当時給料が3万円、家賃は1万円で、あと2万円で歌舞伎や文楽、落語、食べ歩きに使いました。貯金は全然できませんでしたが、今思うとそれが自分の肥やしになっていると感じています。中年以降は神田川俊郎さんに師事していますが、神田川さんがいつも言われるのが、「お金の貯金は使ったらなくなるけども、腕の貯金は使うほど貯まる」という言葉で。美味しいものを食べると味覚が磨かれ、仕事もやればやるほど磨かれていく。魯山人の世界に惹かれ、良いものを追いもとめていった結果が、自分に大きな影響をもたらしたと思っています。
  • Q.
    その後の眞鍋さんの歩みを教えてください。
    A.
    その後、知人の伝で大阪の料理屋をはじめ、料理長として勤めました。その時にフランス料理を学びたい虫がまた顔を出し、実際にフランスまで行き食べ歩きもしました。本      気でフランス料理をやろうとも思ったのですが、それは叶わず、四国でのよし丁というところで総料理長として勤務しました。
    そのお店の経営が思わしくないときに料理長として就任したものですから、おかみさんに相談を受け、落語家さんを呼んで楽しんだあと、海の季節の料理を味わうという企画を行いました。これが人気企画になり、「ザ・包丁人」等の取材も受け、遠方からもたくさんお客様が来て下るようになりました。四国での暮らしは肌にあって大変楽しかったのですが、父親が亡くなって、実家の茶寮ひさごにもどって家業を継ぐことになりました。
  • Q.
    実家の「茶寮 ひさご」に戻ってこられてどうでしたか?
    A.
    好景気だった時代に比べて、お客さんは少なくなっていました。ですが、ご縁があって神戸新聞で「丹波包丁日記」を連載することになったんです。幸いものを書くことが好きだったものですから、毎週仕入れた旬の食材を使って料理の写真をとり、それにまつわるエピソードを書いていったんですね。すると新聞を見たお客様がその料理を食べたい!と来てくださるようになりました。
    地元のお客様は丹波の食材といってもあまり喜ばず、海の物の方が喜んでくださいます。そして、遠方からのお客様は「丹波の物」を食べに来て下さる。この2つを両立させるのがいまだにうちの店の課題です。いろいろ大変なこともありましたが、銀行や商工会の人に助けてもらいながら商品開発や挑戦を続けています。また昨年は、ミシュランガイド兵庫2016版で一つ星に認定されるなど、多くの人に認められ、遠方からもご来店いただき愛される店になったと感じています。
  • Q.
    これからの眞鍋さんの展望をお聞かせください。
    A.
    来年で65歳になりますが、常にチャレンジ精神で、チャンスがあればお店を立て替えたり、新しいお店を出したいと考えています。今一番大事なのが、仕事が楽しいと思えること。借金をしたり、もうかっているわけでなくても、自分がくじけないのは、今まで投資してきた良いものを見たりいい音楽を聞いたり、美味しいものを食べてきたりして感銘した、そういう外見でない蓄積がが自分の心に入っているんです。そういった精神の素養があると、お金がなかったとしても自分が豊かなんです。若い時に精一杯お金を使っていいものを身に着けてきたことが、自分の財産です。生涯現役というのが自分の持論で、80までは現役でやると決めています。